「どうかした、レン?」

 中庭のベンチに座り、日向ぼっこを楽しんでいた遠野志貴は、傍らから送られてる黒猫の視線に気づいた。
 猫の姿をした使い魔は、しかし応えない。ただ、じっと視線を一点に向けるのみだ。

 よく見れば、その視線は志貴自身に向いているわけではない。視線の向かう先は、志貴の頭上。何も無い虚空に向かっていた。
 思わず上を見上げる志貴。そこには穏やかな陽光を振りまく太陽と、それを抱く蒼天があった。

 「うん? なんかいるのかな?」

 古来より、猫には在らざるものが視えるという。その猫が、使い魔ともなればなおさらだ。
 志貴自身もこの数ヶ月で、こういったモノには慣れてしまっている。だから、今更驚くでもなく「まぁ、なんかいるのかもな」と至極あっさりと受け入れていた。

 だから、志貴は気づかなかった。

 レンの眼が、微かに険を帯びていたことを。






夢語り







「……くっ、はぁ!」

 空も白んできた明け方、志貴は苦しげに息づいていた体を、跳ねるように起こした。
 ぐっしょりと汗ばんだ寝巻きから伝わる冷たさに身震いするとともに、ゆるゆるとまどろんでいた意識が覚醒する。
 そして、自分の状況を認識する。

 ここは、就寝したときと同じ、遠野家の自室。
 必要最小限の物しか置いていない、シンプルな個室だ。
 そして、そこに置かれたベッドに横たわる自分。
 その頬には紛れも無い涙の後が残り、首元には濡れた髪が張り付いている。

 ふと、自分が右手を掲げていたことに気づく。
 まるで縋るように。まるで渇望するように。差し出された右手は、一体何を掴もうとしたのか。

 わかっている。そう、わかっている。
 また、あの夢を見たのだ。

 助けられなかった。助けると約束したのに、助けられなかった。
 否、自分は、助けなかったのだ。
 それどころか、自分は彼女を――

「ぐうっ!」

 体の芯が軋む。ココロが悲鳴をあげる。
 贖罪を求めるのは、過去か。それとも、幻想か。
 許されることのない罪は、今日も自分を責め立てる。終わりの無い悔恨はいつも自分の内にあって、離れることはない

 ふと、傍らの闇が揺らぐ。
 染み出るように漆黒の輪郭が浮かび上がり、音も無く枕元に飛び乗る影。

「……レン、いたのか?」

 レンは返事をするでもなく、ただ志貴の涙の跡の残る頬を気遣わしげに舐める。
 ザラザラとした舌のくすぐったさに身をよじりながら、志貴は苦笑をもらした。

「あぁ、ありがとう。俺は大丈夫だよ。」

 そういってレンの頭を撫でる志貴の顔には、隠し切れない憔悴を浮かんでいた。







§








 レンは、よく志貴の夢に這入りこんでいた。

 夢魔にとって、他人の夢は自分の庭のようなもの。
 出入りなど造作も無いことで、自分が望めばその内容を操ることすら出来る。
 大抵の夢は、本人以外には――時には本人にすら――意味不明な代物で、覗いたところでさして面白い物でもない。
 しかし、夢には夢見の主の意識が顕現する。主である志貴の夢は、レンにとって非常に心地よい場所だった。


 ――そう、あの夢以外は。





 夕暮れに染まる町並み。そこを並んで歩く、二人の男女。
 片方は志貴。共に歩んでいる女性を、レンは知らない。
 楽しげに笑う女性。それを見やる志貴も楽しそうだ。

 それは、夢に見るにふさわしい幸せの光景。
 しかしその夢の根底は、ある感情に染められていた。

 悔恨。

 まるで汚泥が絡まるように、暖かな情景のそこかしこに見える黒ずんだ陰り。
 幸せそうに笑いあう二人なのに、その背景は負の感情で埋め尽くされている。
 それは、矛盾した光景。

 その笑顔は、夕焼けのためか朱に染まっている。志貴もまた、微笑と言葉を返している。
 やがて、志貴と女性が互いに手を振り合って別れを告げている。女性の口が、別れの言葉を口づさむ――
 


 突如、暗転。

 舞台は、夜よりもなお暗い闇に染まる路地裏へと移る。



 血塗れで抱き合う二人。
 縋りつくようにしな垂れかかる女性、そしてそれを抱きとめる志貴。ある種、幻想的な光景。
 それは、志貴の手に握られた、禍々しいまでの銀光を放つナイフによって飾られていた。

 何を話しているのかは、レンの耳にはなぜか届かない。
 その変わりに聞こえるのは、悲鳴のような叫びだった。

『やめろっ! やめるんだっ!』

 遠雷のように響くその声は、志貴のもの。
 この世界には存在しない、夢を見ているはずの志貴の声。

 血を吐くような叫びを上げ、自分自身を止めようとしている。
 そんなこと、できないのに。できないと知っているのに。
 それでも志貴の声は止まらない。嗚咽すら滲ませながら、声を張り上げる。張り上げ続ける。

 絶対的なまでに無駄、圧倒的なまでに無力。

 夢の中の志貴は、ためらいながらもナイフをかざす。
 ふと、抱かれた女性が微笑を浮かべる。
 そして、志貴の悲鳴が轟く中、志貴はそのナイフを――


 突然のホワイトアウト。


 志貴が目覚めたのだ。
 滝のような汗。瘧のように震える躯。涙に濡れる瞳。荒い息遣い。
 自分を抱きしめるように膝を抱えた志貴の姿が、白んだ空の薄明かりに浮かび上がる。

 ――それが、レンが初めて志貴の悪夢に触れた時のこと。





 悪夢は毎日訪れているわけではなかった。
 しかし、少なくとも週に一回。多いときには二日連続なこともあった。
 そして、悪夢を見た日の志貴は、体調を崩すのが常だった。

 レンは、苦しむ志貴のために夢を改竄しようとした。しかし、それは叶わなかった。
 志貴本人がそれを望んでいないのか、レンの力ではどうしても夢を変えることが出来なかった。
 あんなに苦しんでいるのに、夢を見続ける志貴。
 レンには解からない。何が志貴をそうさせているのか。

 しかし、原因があの女性にあるのは間違いない。

 なら、それを排除すればいい。
 なにせその女は――

「どうかした、レン?」

 志貴の頭の上に、ぷかぷかと浮いているのだから。

「あ、あはははは……」

 志貴の頭上で、その女――弓塚さつき――が気まずそうな空笑いを浮かべていた。







§








「あの、もしかして、見えちゃってる?」

 レン、コクリと首肯。
 さつきのこめかみにツゥっと汗が流れる。

 夕暮れ前の遠野家の中庭。
 そこに、使い魔と幽霊の、世にも不思議な会談が行われていた。怪談とも言える。
 ちなみに志貴はというと、テラスにある椅子で昼寝中である。

 レンが人型になった際にさつきが幽霊のクセに昏倒しかけるなどのハプニングをはさみ、会談は始まる。
 お互いに言葉を発することはできないようだが、何故か意思の疎通はできていた。

「えっと、レンちゃん、って呼んでいいのかな?」

 コクリと、再び首肯。しかし、その視線にはあからさまな敵意が浮かんでいる。
 射竦められたさつきは、冷や汗の量を増やしながらも思案する。

 よくわからないが、嫌われてしまってるみたいだ。これは困った。

 見に覚えが無いさつきは、どうしていいかわからずにオロオロと視線をさまよわせている。
 そんなさつきに痺れを切らしたのか、レンは囁くように糾弾する。

「えっ、遠野君の……夢?」

 何がなにやらわからず、さつきはますます混乱を深くする。
 レンは、そんなさつきの様子に小首をかしげた。

 この女が原因なのは、まず間違いないだろう。あの夢に出ていたのは、紛れも無く彼女だ。
 しかし、彼女自身は志貴がそんな夢を見ていることを知らなかったようだ。

 はぁ、と小さな嘆息がもれる。
 レンは、仕方がないとばかりにあらましを説明することにした。
 その瞳はどこか咎めるような目で、やはりさつきは冷や汗を流すのだった。



 ポツリポツリと語られる、レンの言葉。それと共に知る、志貴の様子、苦悩、悔恨。
 それはあまりにも自分に関係し過ぎていて、そのことが嬉しくすらあって。
 思わず、涙がこぼれそうになる。彼の優しさが嬉しくて。そして、それに甘えてしまった自分が情けなくて。

「……そっか、遠野君、まだあのこと気にしてるんだね」

 話を聞き終えたさつきは、呆れとも悲しみとも取れるような表情で、そう呟いた。当然かもね、と口ずさむ。
 さつきの、諦観にも似た様子を不思議に思い、レンはたずねる。
 志貴の夢の原因は、貴女ではないのか、と。
 さつきはきょとんと目を瞬いた後、苦笑しながら言った。

「原因といえばそうかもね。あれは、現実にあったことだから」

 でも、夢を見させるなんてことはできないよ。さつきはそういった。
 そして、さつきはレンに自分の状況を説明し始めた。

 まず、自分が幽霊になっていると気づいたのは、最近だということ。
 知っているのは、あの夢が事実であることと、志貴が悪夢にうなされているということだけ。
 さらに、さつきは四六時中志貴に憑いているというわけでもないとのこと。
 レンも、いつもさつきの姿が見えるわけでもなかった。そういう時は、てっきりどこかに言っているものだとばかり思っていたのだが。
 さつきによると、意思が明確な時間(イコール出現時間)は日によってまちまちで、それ以外の時間はさつきにもどうなっているのかわからないらしい。

 恐らくは何らかの条件が必要なのだろう。常時出ていたのでは、発見される恐れもある。それだけ遠野志貴の周りには非常識な輩が大勢いるのだから。
 まぁ、結局はこうやってレンに見つかってしまっているわけだが。

「実はね、アタシもなんでこんな風になってるのかわかんないの」

 あらかた説明を終えたさつきは、照れたように笑いながら、椅子で眠る志貴を見つめる。
 志貴の寝顔は穏やかで、それを見るさつきの表情も柔らかい。
 そして、ゆっくりと志貴に近づくと、その頬をいとおしげに撫でる。

「ただ、気づいたら遠野君のトコロにいた」

 結構嬉しかったんだよ、と呟く。
 その言葉は、労わるような手のひらは、しかし志貴には届かない。さつきの手は、そして言葉は、志貴に触れることなく通り抜けてしまう。

「成仏、してないのかなぁ、わたし」

 苦笑を滲ませながらも、さつきは志貴の頬を撫で続ける。触れ合うことも無く通り過ぎるそれは、一方的な愛撫。

「遠野君を、苦しめるのは、イヤだなぁ……」

 さつきの表情が歪む。溢れる悲しみに押し潰されるように、地に膝をつく。
 嗚咽を押し殺しながら、さつきは俯いたまま動かない。動けない。

 忘れないでいてくれるのは嬉しい。たとえ一時でも自分が彼の心に存在できるのは、幸福なことだ。
 しかし、それで彼が苦しむのは嫌だ。
 自分の我侭で志貴を苦しめたのに、彼はまたそれで苦しんでいる。

 ――それなら、こんな幸福などいらない。

 さつきはごしごしと涙を拭き、まだ赤い目でレンを見据える。
 くるくると変わるさつきの様子に呆けていたレンは、思わずびくりと硬直する。

「ねぇ、レンちゃん」

 決意の滲む表情は、凛として。決意に満ちた声は、粛として。
 さつきは、レンに告げる。



「遠野君を救うには、どうしたらいい?」







§








 実際のところ、現在のさつきの存在は関係ないのかもしれない。

 レンはそう考えていた。

 さつきの言葉を信じれば、志貴の苦しみは、志貴自身の犯した――たとえさつきがそう思っていなくとも――過ちゆえのものだ。
 ならば、自分が志貴の夢に干渉できなかった理由も納得が行く。

 志貴のあの夢は、いわば自分自身への罰なのだろう。
 忘れてはいけない罪。それと裏腹に癒されていく自分自身。そして、その許しを受け入れられない自分。
 相反する自我は、夢というカタチを持って志貴を糾弾する。

 しかし、その罪の象徴たるさつきは、そんなことを望んでいない。
 忘れられたくは無いが、自分のせいで志貴が苦しむのを望んでいるわけではない。

 生者は死者に許しを請い、それを与えられるのは自分しかいないことに気づかない。
 死者は生者に安息を願い、その声は決して届くことは無い。

 皮肉な、すれ違い。

 しかし、幸いというべきか。死者は、ここに居る。
 それゆえに、生者の苦しみを目の当たりにすることになったが、それゆえに、死者の許しを届けることが出来る。



「わたしが、遠野君の夢の中に?」

 レンは、さつきに作戦を説明する。といっても、簡単なものだ。
 さつきを志貴の夢に登場させる。内容はそれだけだ。

 志貴はあの夢への他者の介入を、頑なに拒んでいる。しかし、それが他者ではなかったらどうだろう?
 あの夢には、さつきが存在している。それは、少ない時間ではあるが、雛形と成り得るはずだ。
 あとは、それに現在のさつきを当てはめるだけだ。ある程度の齟齬は、志貴自身が修正するだろう。夢とはそういうものだ。

「で、でも、わたしは何すればいいの?」

 さつきは、不安を隠せないでいる。
 それもそうだろう。夢に入れたとしても、何を言えばいいのかわからないのだ。
 しかし、わからないのはレンも同じだ。まして当事者ですらないのだ。さつきがわからないのなら、わかるはずも無い。

 ただ一つだけわかるのは、画一化された悪夢に一穴を穿つことができる、ということだけだ。

 恐らく介入できる時間は、夢の中でも僅かだろう。
 それで何が変わるかはわからないし、変わらないかもしれない。
 でも、何もしないよりはましだろう。

「……うん、やってみる」

 さつきの表情に迷いは無い。志貴のために、そう決意した少女の相貌は、ただ美しかった。
 その表情に見とれていたレンは、ふと思い出す。何も知らない自分が、彼女のことを敵視していたことを。

 突然しゅんとなってしまったレンに、さつきは思わず面食らう。
 『ごめんなさい』という気持ちが、強く儚く伝わってくる。
 さつきは微笑むと、優しくレンの頭を撫でた。擽ったそうに目を細めるレン。

「……あれ?」

 さつきの声にきょとんとするレン。その頭には、さつきの手が――

 途端、レンの表情も驚愕に染まる。無表情な彼女にしては、珍しいことだが、問題はそこではない。

 そう、触れているのだ。
 実体を持たないさつきが、実体を持つレンに、触れている。

「な、なんで!?」

 思わず叫ぶさつき。レンも、さつきの手を握っては首をかしげている。

 奇跡か、否か。
 それを答えられるものはここにはおらず、奇跡に足りうる素晴らしいものが得られるわけでもない。
 気紛れに起きた不思議に、少女達はその愛らしさに相応しい悪戯を返す。

「そうだ、レンちゃん」

 さつきは、そういうや否やレンを後ろから抱きしめる。
 バタバタと暴れるレンに構わず、さつきはその感触を確かめるように、レンの髪に顔を埋めた。

「遠野君は、もしかしたら信じてくれないかも知れないと思うんだ」

 頭上からの少し悲しげな声に、レンはさつきを仰ぎ見る。
 さつきは、その表情を綻ばせると、くすりと笑いかけた。

「だから、ちょっとだけ協力してくれるかな?」

 レンは、わけもわからず、コクリと頷くのだった。







§








 あぁ、またこの夢か。

 志貴は、嘆息を吐き出す。
 隣には弓塚の顔がある。そして、その様子を俯瞰する自分。
 夢でしかありえない、矛盾した視界が広がっている。

 見れば、自分達は分かれ道にさしかかろうとしている。
 ここで自分は彼女と別れ、あの路地裏で再会することになる。

 それは決められたシナリオ。決して覆ることの無い、決定事項。
 そして、自分が彼女を殺めるのもまた、変わることは無い事実。

「くっ!」

 慣れることは無い。慣れることは許されない。
 自分に出来るのは、ただなんの影響も与えることの無い静止の声を上げ続けることだけ。

 さぁ、彼女が『ばいばい』と手を振れば、舞台はあの忌まわしい闇に変わるのだろう。
 そして、自分は相も変わらず彼女を裏切るのだろう。なんて、悪夢。

 さつきの手がゆっくりと振られて、別の道に向かう。
 そして、世界はいつものように暗転――



 ――しなかった。



「えっ?」

 気づけば俯瞰の視界は消えうせ、自分の前には弓塚の後姿のみがある。

 そして、刹那の間の後。
 弓塚さつきは――あろうことか――クルリと振り向いたのだった。

「なっ!?」

 視界が眩むほどの驚愕が襲い来る。思わず地面を確かめるようにたたらを踏む。
 それは、ありえない、永久不変なはずの世界の変化。

 混乱の極みに陥っている志貴に、さつきはそっと微笑みかけた。

「ねぇ、遠野君?」

 ――遠野君

 彼女はそう言った。
 志貴君ではなく、遠野君。
 それは、彼女が吸血鬼になる前の、自分の呼び名で、永遠に失われてしまった声で。

 ますますわけが解からない。思考が散乱し、分解し、拡散する。
 そんな自分をよそに、弓塚は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「もう、いいよ?」
「えっ?」
「もういい、っていったの」

 彼女は、遠野の屋敷の方の空を見上げる。

「弓、塚?」
「困ったなぁ、遠野君を困らせちゃうつもりはなかったんだけど」

 そして、またくるりとこちらを振り返った。
 その顔が、笑顔にも泣き顔にも見えて。夕焼けに染まった相貌が余りにも綺麗で。
 ドクンと心臓が音を立てた。

「いろいろ言いたいことはあるんだけど、時間もあんまりないみたいだから手短に言うね」
「時間が……ない?」
「うん。あっ、詳しいことはレンちゃんに会ったら全部解かるよ」
「レン!?レンにあったのか?」

 こちらの言うことには耳を貸さず、弓塚は、またニコリと微笑むのだ。こちらの気も知らず。

「ありがとう、遠野君」
「……なにが、だよ」
「いろいろ、だよ」

 こっちの言うことにはまるで頓着しないように、彼女はマイペースを貫いた。

「そして、さようなら」
「まっ、待てよ、弓塚!」

 慌てて手を伸ばす。彼女が消えてしまうのがわかったから。もう、会えないのだと知ってしまったから。
 その手は、空を切ることなく、彼女に届く。暖かな感触が伝わってくる。

 あぁ、嘘じゃない。夢かもしれないけど、彼女は嘘じゃない。

 掴んだ手を、一度だけぎゅっと握って、彼女は諭すようにその手を解いた。

「バイバイ、遠野君」

 彼女の後姿が遠ざかっていく。涙が零れだすのを自覚する。

 『また明日』は、無かった。







§








「……きさ……し……様」
「……ん、んぅ?」

 志貴が目を開けると、そこには、翡翠の顔があった。

「うわぁ!?」
「きゃっ……!」

 飛び上がる志貴と、跳ね退く翡翠。
 やっと状況を認識した志貴が、少しおびえたような翡翠に謝る。

「翡翠、ゴメン。ちょっといきなりでびっくりしたんだ」
「いえ、構いません。おはようございます、志貴様」
「あっ、おはよう、翡翠」

 志貴は、ふと、翡翠の表情が冴えないことに気づく。そしてそれと同時に、翡翠が声をかけた。

「なにか……悲しい夢でも?」

 見れば、翡翠の視線は自分の顔に向いている。
 わかっている、どうせ涙の跡が残っているのだろう。
 彼女との別れを惜しむ自分が流した、傲慢な涙の跡が。

「いや……」

 言葉を選ぶように、少しだけ俯く志貴。
 そして、何かに思い当たったのだろう。すっと顔を上げると、苦笑を滲ませながら言った。

「いや、悲しいんじゃない。ただ、少しだけ寂しい夢だったよ」
「……寂しい、ですか」

 そう、自分は寂しいのだろう。

 不可解な彼女との別れが。
 そして、不可解な彼女の言葉に、救われてしまった自分が。



 朝食を終えた志貴は、中庭へ向かう廊下を歩いていた。
 朝起きたとき、レンは部屋には居なかった。大方、日向ぼっこでもしているのだろう。 今日も空は、抜けるような青空だった。

 しかし、志貴の表情にはどこか陰が落ちている。

 心のどこかが囁く。
 あの夢は、あのさつきの言葉は、自分が言わせたのではない?
 罰を受け続けることに耐えられなくなった自我が、そんな夢を見せたのではないか?

 そして、弓塚の言った『レンに会えば解かる』という言葉
 あの夢は、レンの仕業だったのではないか?

 疑心は尽きない。夢の中では確信できた彼女の存在が、夢と共に霞んでいってしまう。

 陰鬱な気持ちを抱えて、志貴は中庭に出た。今はさつきの言葉に従い、レンに会うしかない。

 木陰に、黒いドレスが見えた。どうやら今日は人型になっているらしい。

「おーい、レン……って、えっ?」

 言葉に詰まる。一瞬思考が麻痺した。
 見間違いかと思い、目をごしごしと擦るが、やはり光景は変わらない。

 木漏れ日の中、虚空を見上げるレンの髪は、二房にまとめられていた。

 ツインテール。彼女のトレードマーク。
 思わず苦笑する。
 こういうことか、弓塚。

 苦笑はそのまま笑いとなり、それはだんだん大きくなる。
 その笑い声に気づいたレンが、二つの尻尾を振りながらこちらに駆け寄る。

「おいおい、どうした、レン?」

 こちらの言い分も聞かず、レンは志貴を中庭に引っ張り出す。そんなレンの様子に、また苦笑が浮かぶ。

 やれやれ、どいつもこいつも、話を聞きやしない。

 レンにつれられて、中庭の隅に来る。差し込む陽光は、どこか柔らかかった。
 レンが、空に向かって手を振る。急かされて、同じように志貴も手を振った。
 おそらくはそこに居るであろう、去り行く人への思いを込めて。


 バイバイ


 そんな声が、空から聞こえた気がした。







<あとがき>

どうも、蒼大将です。
ほんとに今更ですが、初めてのこんぺ出展作、結果的に37位というありがたい評価を得ることができました。

しかし、やはり不満は残ります。
締め切りギリギリに(正確には超過して)急いで書いたため、後半の部分がまったく説明不足になってしまったことは、今でもやはり心残りです。
頂いた感想にも、このことに触れられているものが多く見られました。
ネタ的にはもっと上を狙えたとすら思っていましたから、中途半端になってしまったのは(自業自得とはいえ)残念でなりません。
いずれ、完全版的なものを書けたらいいな、とも思ってます。

などと、つらつらと愚痴を述べましたが、やはりこの結果は嬉しいのも事実で、結局は『SS書くのはやっぱ楽しいな』って話なのですよ(w
次のかのんSSこんぺにも参加予定ですので、今度は時間に余裕を持って書こうと思ってます。
何はともあれ、読んでいただいた皆様に、感謝です。楽しんでいただけたら、幸いです。


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